重い病のときは 天に命を預ける日かも知れません
例えば自分がなにか難しい病に罹った時、それをどのように受け止めるのかは十人十色ですが、私はもしかすると、「その命を天に預けよ」と言われているのかも知れないと思います。
その人に、「生きている時を修行の日々として、私を納得させてみなさい」という天命を、受け取らせようとしているのかも知れないと、思うことがありました。
事故で突発的な命の危機を味わう日は、誰もが予測できないためどうするべきか分かりませんし、「その日」に出くわすまで、人は自分がどんなカルマを持っているのかを知らないで、生きている事が多いでしょう。
突然出くわした悲劇なり喪失感なりを以て、己の人生に覆いかぶさってきたカルマのことを、初めて知るのでしょうか。
そのようなことになるのは、とても辛く悲しいことであるのは言うまでもありませんが、いくらかでもカルマを軽減するための、修行のような生き方があります。
日々の中で人を慈しむ心を養い、それを続けていくのです。
ときには疲れてしまうことがあるかも知れませんが、その志こそ「己のカルマによって人生を転覆させられるような「何か」に絶対会わずに済む」とまでは言い切れないにしても、「大難は小難、小難は無難」という流れは掴めるかも知れないと思えてきます。
人生の一歩先は誰にも分からず、多くの景色や好ましいものを散々見てきた目でも、それを見ることは叶いません。
自分だけのことに留まらず、「大切な誰か」についても、同じくらい、あるいはそれ以上に心を悩ませられる日々もあります。
例えば自分は命の限りが来ても、それを受け入れられるような理知的で潔い心根であったとしても、「自分以外の大切な誰か」となると、心を尽くしても尽くしても足りないほど心配な筈です。
そんな苦しみはその人生で、絶対に味わいたくないことであろうと思います。
しかしながら無情なもので、生きているものは、この世から旅立たずに済む筈もなく、人は誰でも旅立ちのための心の準備を強いられてきます。
一生を生き続けて年老いて、心残りもなく旅立つ日は、それは幸せなことなのだと思いますが、皆がそのように旅立つ事ができるとは限りません。
人それぞれの持つカルマに従って、志半ばで旅立つこと、苦しみが癒えぬまま旅立つ無念さを、その人自身よりも、むしろ残されて行く人々がどのように苦悩するかを、人はいつの日か考えるべきかと思います。
それが人を慈しむ心でもあるということでしょう。
今実感していないとしても、家族であったら自分の考えている以上に、心からの慈しみを抱いているはずです。
この世で生きている時は、自分だけのことでなく、家族や友人、仲間たちと共に常にこの世にいて、心は互いに通じるものが生まれてくるはずなのです。
例えばあまり好ましくないと思っている人に対しても、一旦病気になったり不運を味わったのを知った時は、心配の情が生まれて来るのは、素の人間として当たり前のことであるべきだと思えます。
何故人は神仏を敬い、祈りを捧げるかということの中に、カルマを軽減し解消させることのできる修行があることを、多くの「神仏を信じる人々」は知っている筈です。
そして何故それをしなくてはならないのでしょうか。
それは前述したように人生の未来は分からず、歩む道の下に何が埋まっていて、それがある日目前に現れ、どれほどの悲しみをその人にもたらすのか分からないからです。
大切な人、愛する人が今日も健やかで幸せであるように、人は心から願う筈だからです。
その人が自分の人生の中から消えてしまわないように、心から願う筈だからです。
今日も読んで下さいまして、どうも有難うございました。
画像は青森県八戸市、八戸公園の桜満開の様子です。
温暖な日でしたので、動物舎には可愛い姿が見られました。
街を行けば全体的に薄もも色の色彩が、心に暖かなものを感じさせてくれました。
今日のフィーリングは、浜崎あゆみさんの「Mimosa ミモザ」、Gipsy Kings ジプシー・キングスの「Inspiretion インスピレーション」、MISIA ミーシャさんの「希望のうた」かな