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瑞光天とは- about -
瑞光天とは

法華経を行ずるとはどういう事なのでしょう


 もう何年も昔のことです。
どなたかは忘れましたが、「日蓮宗の仏壇は僧侶の像を祀って、一体何であの様な祀り方をするのか」とテレビ番組で発言なさっていたのを覚えております。
私の家は何代も日蓮宗でして、そのスタイルはもう見慣れたものでありましたから、少しばかり違和感を覚えたものでした。
今日はその理由など、少しお話したいと思います。
 日蓮宗では法華経が最も大切な経典とされ、法華経を信じて、その経典を実践して広める人は、「法華経の行者」と呼ばれます。
この行者には必ず世間からの迫害や、非難が起こるとされています。
 では何故苦難や災いが、行者に降りかかって来るのでしょう。
それは法華経を行じる事によって、「神の存在」を得度させることになるからだと思います。
神といっても、様々な段階の方々がいらっしゃいます。
人や生き物に対して優しい御心を下さる、仏界に昇られた神々もいらっしゃれば、「生命 いのち」を何とも思わない心で、恐ろしい力を持つ、人にとって最も厄介な存在もあることでしょう。
そのような「神」と呼ばれる方々は、お経によって得度させられるのを、恐れたり嫌ったりするものです。
自分たちの心のままに、やりたい放題が楽なわけですから、教則本のようなお経など聞きたくないのです。
法華経の行者は、それに挑んで行くわけですから、災いも振りかかることでしょう。
つまり己のカルマに対して、本気で取り組もうとする時、命が架かることがあるということでしょうか。
そして世間から、迫害され非難される事が起こるのは、世間にも人が生きていく同次元に、「魔物」が存在している証拠でしょう。
そのような「魔物」たちは、世の中を正しく美しく変えようとか、美しい魂を保ち続けようとするものを嫌い、排除しようとするものだからです。
それなのに何故行者となるのかといえば、人生に付き従うカルマを治めて、六道輪廻(ろくどうりんね、広辞苑によれば地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界の六道の間を生まれ変わり死に変わりして、迷いの生を続けること)から脱して、本当の幸せを得ることを目的としているからだと思います。
 人生を楽しく穏やかに暮らす道を歩むことは、無理をしない幸せな生活かと思われますが、カルマというものを全く意識せず過ごしていくことは、カルマに対処する修行がされていないことで、「穏やかで幸せな道」を選んだつもりが、そのカルマによって、いつその幸せがひっくり返されるか分からないのです。
それであえて、「行者」というカタチで人生を渡るとき、生じてくる苦難や厄災と渡り合える慈悲と智慧を学び、その心構えに依って得た力で、大難は小難、小難は無難という流れを実現させたいという願いを、叶えることもできるかと思われます。
 法華経の行者が、何故法華経を広めることが必要かといえば、人生のカルマを消滅させることによって、本当の幸せに到達することができると信じていて、それは他の人々も同じだと思うからでしょう。
それは本来1つの宗教を、多くの人に広めようとしていたわけではありません。
日蓮聖人は「私はいずれの宗教の教祖にあらず、ただ法華経の行者なのだ」とおっしゃっていたはずです。
イエス・キリストも、「私の教えを宗教にするな」とおっしゃったと、何処かで聞きました。
優れた教えに人は集まり、結局その方が人々を率いてしまう流れのなかでも、最後までその原点を守り続けた時、その指導者は偉人と呼ばれるにふさわしいと思えてきます。
 ただ「行者」であるとき最も大切なのは、「法華経を信じること、つまり信力」なのです。
「信力」が基本であり推進力であり、到達点に向かわせるための天道を理解し、天道に味方して頂けるような、清らかな人になるための大切な扉であります。
  色々な場面でのトラブルや、人との軋轢(あつれき)等の苦難は尽きず、人であるならばそれを避けたいのは当たり前です。
それで自分は「法華経の行者」の道は嫌だということも、よく理解できます。
しかし人生には、何が起こるか分かりません。
明日の私たちの生活に垂れ込める雲の色は、未知なるものです。
突然の厄災や悲しみが起こる可能性は多く、急にそんなことに出くわしても、私達は途方に暮れてしまいます。
 そんな時、神仏の心の傍に身を置くことは、決して虚しいことではないと思います。
何故なら修行によってその人は、しっかりと神仏の心と共に生きられる可能性があり、それは人の根本的な難題に寄り添う、天の慈悲を得ることになるからです。
法華経を行じて、例えば様々な災いに出くわしたとして、その人が正しく生きようとした時には、必ず神仏の「守護力」が現れて来ます。
苦しみや哀しみの中でもがいても、必ず心の中に一筋の光が差し込みます。
 仏壇に日蓮聖人の像を祀るのは、この方のように真理に向かい清らかであろうとし、他の人々をも、その苦難から救い出そうと決心し、自らに降りかかった災いから生き延びることを、私たちに見せて下さったその姿を心に描き、勇気を持って行じる生き方を受け入れようとする、「法華経を行じる人々」の決心の表れかと思います。
 日蓮聖人が数々の苦難や災いに見舞われた事は、後に続くであろう「法華経の行者」の苦難を少しでも助けて下さろうとしたのではないかと、感じることがあります。
厳しい世間の出会いや別れ、そして突然現れる厄災の故に、行じる事を諦めないように私たちを鼓舞し、時に優しさの眼差しを向けて下さる心を感じることによって、毎日のお仏壇の前で、己の心に深く染み入るものが必ずあると、私は思います。
 今日も読んで頂けましたことに、心よりの感謝を申し上げます。
今週も、心が晴れ渡るような幸せが沢山あります様に、お祈りしております。
 画像はナ−スのリカちゃんです。
「お身体の具合は如何ですか?」とか、「あまり無理しないでね」とか言ってくれているような気がして、心が癒されます。
  今日のフィ−リングは、スピッツの「スタ−ゲイザー」、MayJ.メイ・ジェイさんの「思い出がいっぱい」、Al DI MEOLA アル・デイ・メオラ氏の「Edenエデン」かな