愛すれど側にいられない運命を 何故与えられるのでしょうか
今晩藤沢周平氏の、「蝉しぐれ」という小説の映画を観ました。
以前観たことがありましたが、今回もまた「哀しくて美しい物語」だと思いました。
愛する人がいても複雑な運命の流れによって、縁を切られてしまうという事は、この世には沢山あるでしょう。
それでもこういった場合、「縁を切られる」ということはあてはまらないと思います。
何故なら幸せであろうと不幸であろうと、心が繋がっているなら「縁」は消えないからです。
愛し合っている恋人同士であって、それでも様々な要因でそばにいる事が出来ない場合、それが「縁が切れた」と言い切れないのは、やはりその二人の間に横たわる「カルマ」のために耐えなくてならない、「人間としての修行」をしている状態であることが考えられます。
天の采配する修行は、時折酷く残酷であることも多く、死にたくなるほど辛いことも生じるのでしょう。
そこには恐らく三通りのカルマの流れが、あるのではないでしょうか。
一つは前の世で出逢っていた人同士であり、そのどちらかまたは両方が、「家門のカルマ」を多く背負っている場合、心がどんなに「遭いたい」と思っても、それをあらゆる者たちが阻止する事になり、「逢えるはずの時」をずらされてしまうこと、二つ目は前の世で出逢っていても、どちらかが相手を裏切っていた場合、現世で出逢って、当然心は穏やかではいられませんが、この場合「天道」が邪魔することとなるはずです。
そうすると、この人生でどうしても許しを請うための修行を、しなくてはならないと思います。
三番目は、家同士のカルマによって出逢って、忘れられなくなる場合です。
現世で初めて男女の因縁を持つのであるため、次の世に「幸福」を、持ち越さなくてはならないことがあるかも知れません。
いずれの場合でも、何かのカルマが関わっていると言えるでしょう。
どんなケースであっても、心が慕っている人に逢えなければ、死にたくなるほど辛いものと思われます。
このように男女の心が求めても得られない「苦しみ」は、本当に味わいたくないと思えますが、多くの方々がこのような状態を味わってしまうのが人生であると思います。
それでは何故私達「生き物」は、このように苦しまなくてはならないのでしょうか。
それは一個の人間が、相手を欲する心を持った時、「囚われの心」となっているはずで、正常な判断が出来なくなり勝ちです。
これもまた「あなたはこんな時、どのような道を歩まれるのでしょうか?」と天から問われているはずです。
「問われたって突き進むしかない!毒食わば皿までだ!」と覚悟を決めるか、相手の立場を深く考えて行動するため、一人静かに時を待ち時を過ごすのか、いずれの場合も傍らに「祈り」ということを置くべきかと思います。
私達人間は、愛するあまり自分自身しか見えなくなる事があります。
その執着の心のために、相手を傷つけて死に至らしめたり犯罪者となる場合もあるかと思います。
そのようなことをしてしまうなら、何度生まれ変わっても満足の行く出会いに巡り会えず、いつも心の中で水を欲するように、叶わぬ愛を欲しながら生きていくしかない、そんな地獄を味わうはずです。
人生における「愛」の結末は、誰にも分かりません。
それ故この場合も又、心の流れの結末は、神仏に委ねる事が必要となって来るのではないでしょうか。
どんなにお願いしても、「幸せ」を繋いで下さるのは無理な場合もあるはずですが、心が収まらなければ、静かな朝夕お線香を焚いて、自分の好きなコーヒーやお茶などを相手に捧げて、ただ相手の幸せを心から祈る事をお続けになったら宜しいかと思います。
本当に出会うべき方なら、その先にやがて納得する日々が訪れるはずです。
本当に出会うべき方でないなら、やがて更に心奪われる方が、そこから先の道で待っているのではないのでしょうか。
自分の魂のレベルに合う人に出会うのがこの世です。
自分を、修行の中から清らかな香り立つ魂へと、昇華していく努力を惜しまない方々には、たとえ時間が掛かったとしても、いつか気がついたら、その方が隣で微笑んでいて下さるのではないかと、私は思います。
画像は近頃突然現れる「黒猫さん」です。
昔から「黒猫を抱いて治療を受けると病が早く治る」と言われるようですので、この子を抱いて病院に行こうかな。
その前にもの凄い引っかき傷や噛み傷を、覚悟しなくてはなりませんね。
怖っ!!!
今日のフィーリングは、サザンオールスターズの「愛の言霊(ことだま)~Spiritual Message スピリチュアル メッセージ~」、Official髭男dism(オフィシャルヒゲダンディズム)の「TATTOO(タトゥー)」、米津玄師氏の「アイネクライネ」かな