動物や植物の感情に気付くときが来たのかも知れません

食肉が家庭のテ−ブルに並ぶまでに、多くの過程を通って来ます。
生きていたものがその命を奪われなければ、私たちの口から栄養を摂ることができない訳です。
その中で一番辛い過程はやはり、栄養とされる生きものの、命を取るときでありましょう。
そこにたずさわって下さる方々がいらっしゃるため、私たちは何のわだかまりもなく、美味しいお料理を口に出来る訳です。
以前にもこの様な事を書いた覚えがありますが、私たち消費者は、パック詰めされた二つ足四つ足などの肉を、食べるだけであっても、生きものを殺生するときの過程とは、何の関係もないとは言い切れないと思います。
「見たくないもの」も「見るのは辛いもの」も、それを見ないようにしたとしても、「現実」は歴然としてあるわけです。
私たち人間だけでなく、サバンナなどの生きものたちも、食物連鎖の営みに組み込まれ、食うか食われるかの攻防を繰り広げているのでしょう。
この世では「物語」がある程度決まっていて、人やその他の生きものも、それぞれの役割を持って生まれてくるのかも知れません。
私たちは植物であれ、二つ足四つ足の生きものや、海に生息する生きものなどを食べなければ、生きていけません。
そういう意味では、誰しも何らかの罪を背負っているという事でしょう。
「善悪の基準は神の持つ権利に依って定められる」、という世界観にも鑑みて(かんがみて)考える時、この世における私たちや他の生きものの命は、「風前のともしび」だと言えるかも知れません。
災害や事故や病気などによって、私たちが大切な人を失う時、例え大きな悲しみにさいなまれても、誰にも文句を言えないということでしょうか。
それでも私たちの心を突き破ってしまうような、手に負えない怒りや悲しみに対しての感情は、いったいどこへ向かって行くのでしょう。
強い怒りや悲しみや憎しみを持った人の御霊を、丁寧に祀ると「大きな力」を発揮すると、昔から言われて来た由縁は、そんな爆発しそうな感情が、大きな力を持つということではないでしょうか。
動物と人間の関係においても、例えば犬や猫や鳥などを飼ったことのある方々は、感じていらっしゃると思いますが、動物たちには細やかな感情があります。
心を尽くして育ててきた生きものたちは、家族と同じような存在となります。
それ故私達を慈しんでくれることも、感じられます。
そんなこの世で、今まで大切に育てていた生きものを、図らずも捨てなくてはならない時や、また儀式や風習で「生贄(いけにえ)」のようなかたちとして、殺さざるを得ないとき、その生きものの心にある絶望感は、いかばかりでしょうか。
信じていた人々から急に捨てられ、あるいは殺され、別の世界に旅立つ日、その生き物はどの様な想いを持って去り行くのでしょうか。
昔から行われて来た「生贄」の存在の中に、その悲しみや怒り、「殺される」という恐怖感や絶望感が圧縮された感情も、神に捧げられるべきものなのでしょうか。
神に捧げ物をすれば、何かは静まるかも知れませんが、その為に殺された者の感情は、圧縮されたまま積み重ねられ、いつの日にか大きな力を持った「厄災」となって、この世で生きる者たちに、跳ね返って来はしないかと懸念してしまいます。
その為必ず仏の力が、必要となって来るかと思います。
どうにもならない心のまま、亡くなっていった人々や動物たちの膨大な感情を、仏の光は暖かに照らし、憤怒(ふんぬ)や恐れに沈んだ心を、穏やかな季節に連れ戻します。
生贄を取らなくては納得しない、恐怖の存在としての神の心を、いつか静かに解き放つはずです。
神と仏が温かな光のもとで溶け合うとき、この世に生きる者たちの、本当の幸せを作り出していくことができると、私は思います。
画像は今年の中秋の名月、 9月25日(金)の22時頃にスマホで撮影しました。
ズ−ムがあまり効かず、この様なお月様となりました。
あの日は素晴らしい夜空で月明かりも美しく、月の明かりの周りに虹のような光の輪が掛かり、とても綺麗でしたが、あまり上手に撮れなかったのが残念でした。
今日のフィ−リングは、宇多田ヒカルさんの「Gold〜また逢う日まで」、絢香さんの「三日月」、秋川雅史氏の「イヨマンテの夜」かな
明日からまた、お忙しい毎日となるかと思いますが、皆様お身体大切になさって下さいませ。
心穏やかな幸せがたくさんありますように・・・

