自我とは どうするべきものなのでしょう
「自我」という言葉を調べてみると、EGO エゴ(利己的な意味合いを持つ)と Identitiy アイデンティティー(自己認識という意味合いを持つ)という、2種類が表現されるようですが、
エゴという意味での自我は、修行のときには様々な障害を人の心にもたらすようで、修行に入る時には恐らくどの宗教、宗門学派でも一番先にそれを滅するための修行をするようです。
ある宗門では、何ヶ月もの修行をしますが、初行の時は、まるでモノのように扱われ、本当にいじめに近いような酷い目に合うようで、それは行の一番初めに自我を滅することを覚えて於かなければ、天からの言葉や命(めい)が心に伝わらず、行を積み重ねても魂のレベルを上げるのが難しい、ということらしいです。
自我というものが自分の心の主(あるじ)となり、天から降りてくる何かを正しく受け取れず、最良の行いができなくなるのを恐れてのことでしょう。
私は太極拳を何年も続けているのですが、太極拳で一番大切な考え方が「捨自従人」、これは「捨己従人 しゃっきじゅうにん」ということで、己を捨て去り 他の人の意見に従うことです。
例えば「推手 すいしゅ(対人との手合わせのようなもの)」のとき、動きだけで相手に従っても、自分の我や意念が出ていたら、「捨自従人」の狙いを満たせず相手に悟られて、崩されてしまいます。
ところが本当に相手に従おうとした時は、相手の意念を感じ取れ、相手を捉える感覚を研ぎ澄ますことが出来て、相手が崩れることになるといいます。
捨自従人をまっとうする修行を積むと、相手の意念を捉える感覚を養えて、相手の意の流れを捉え、それに従って流せば一連の気の流れが出来て、容易に相手を崩せる事になるということを、ネットの「太極漫遊」というページで見つけました。
深いお話を頂き、感謝しております。
私は何年も太極拳を練習してきて、今になってやっと分かって来つつあるような気がしますが、圧倒的に練習量が不足しているから、太極拳の味わい深いものに触れることすら出来なかったのだと、猛省しております。
信仰の世界にも同じように「あなたが何をしたいのかではなく、御神が何をお望みなのかを知りなさい」という言葉があります。
私なりに何度も「行」をしてきたつもりですが、その中で時折何処からともなく聞こえて来る言葉に「天に宗教、宗門学派など無いのだよ」ということがあります。
何処の場所でも、一定の思想、哲学、経典などを学び続けて、ある一定のレベルの場所へ魂がたどり着いた時、そこでは「あなたはキリスト教?」「あなたはイスラム教?」「あなたは拳法?武道?」、などという境がなく、互いに頭(こうべ)を垂れるにふさわしいほどの境地を、得る事ができるのかも知れません。
それは物凄く修行した武術の世界の人々の中にも、神や仏を見ることが、できるのだろうということでしょう。
「我思う 故に我在り」とはフランスの哲学者、ルネ・デカルトの言葉ですが、自分が何か考える時は、自分がそこに存在している確かな証拠であるということらしいです。
私達がこの世に「存在をする」としたら、心穏やかに他を敬うことができる境地を、互いに共有したいと思います。
自我をいったん滅する事を知った日から、きっと他の魂の美を容易に受け入れることが出来、心穏やかで寂しさなど微塵も感じられないような「境地」は、人生をとても豊かなものにすると、私は思います。
今日も読んで頂けましたこと、心よりの感謝を申し上げます。
画像は今年も咲いてくれた「クレオメ」です。
何本も咲いていたのですが、綺麗な写真の投稿が出来ませんでしたので、また差し替えたいと思います。
今日のフィーリングは、玉置浩二氏の「田園」、Peter Gabriel ピーター・ガブリエル氏の「ファーザー・サン」、Chris De Burgh クリス・デ・バー氏の「The Same Sun ザ・セイム・サン」かな