カルマとは何でしょうか
この世で生きているあいだでも、多くの方々は正しくあろうと考えるのではないかと思います。
間違っている道とは、法に触れることや人を苦しめる事だと認識しているはずですが、人は全く他人を傷つけるつもりもないのに、知らぬ間に誰かが傷ついているといった場合があります。
そのような場合は、どのあたりが誰の罪かという部分がはっきりしませんし、それを恐れてあまり発言したくなくなるということにもなりかねません。
この世のどんな事象にも、それぞれの立場の「罪と徳」が存在します。
その中で、Aさんはこの様に考え行動し、Bさんはこのように対応したことにも、それぞれの適切なところや残念なところ、酷いところを本当に知っているのは「天」でしょう。
人と人との対話や行動にはそれぞれの心根や想い、その他に偏見や嫌悪の気持ちが入り乱れて、何らかの結末を迎えますので、それが「天」の采配に沿ったものとは違うことも、あり得ると思います。
人一人がこの世で生きるときは、もちろん完全無欠ではあり得ないでしょうが、人の心の中で、他人に対しての慈しみや自分自身の心の修練を保ち続けて生きる人と、自分の思うがままの人生に、他の人の想いを一切描かずに生きる場合とでは、新たなカルマを作り出す度合いが違ってくるはずです。
人生の中で成し得たこと、頓挫してしまったことなどの中にも「罪と徳」を課される事もありましょう。
この世に存在しているもの全てに、何らかの意味があるのでしょう。
誤解や偏見なども相まって、人々に「良きもの」「悪しきもの」と判断されながら生きる私達人類も、またあらゆる生物、創られた物体もこの世はそれぞれ寄り添い合いながら、反発し合いながら、その存在意味を語っているのでしょう。
次の人生、来世を描く人々には今この時点では確実な証明は難しく、「それはただのロマンだ」という意見も認めつつ、それでもやはり人生を、修行の場と見る以外には考えられないほど、それは時折辛く苦しく悲しいものであります。
あまりにも辛い日々の「ニュース番組」を見ながら、来世がないというのでは心が治まらないのです。
無慈悲に発砲し爆弾を投下し、そこで暮らしていた人々の日常、幸せな時間、宝物のような思い出、美しく創られた町並みや建物、人々が心を込めて作った草花や道路などが粉々にされ、子どもたちが包帯を巻かれ、やせ細り泣いている場所、無常を雄弁に語る、布で包まれたいくつもの遺体が並ぶこの日々を見るたび、来世がないならもう生きる希望もなくなりそうです。
世界を恐怖に陥れようとするものが居るとしたら、きっちり来世でも精算してもらいたくなるのです。
仏教の教え、「因果応報」をしっかり味わって頂きたいとさえ思うほど、「凪 (なぎ)」を求めてコーヒーを飲んでも、心が治まらないのです。
「やられたらやり返す文化」が、残虐な命のやり取りに発展するのなら、それはもうやめて欲しいです。
それを認めたくはないけれど、辛い思いをするのには、それを受けるカルマがあるようですが、自分が経験した辛い思いを、他人にも味わわせてやろうという心があるのなら、それはもう「天道に沿った人の心」を、逸脱しているように見なされてしまうかも知れません。
この世に生まれたときから、天道に沿って生きようとするなら、いつか心の中に「天」を見つけて幸せな気持ちを得るはずですが、そうでなく私利私欲の奴隷となって、他人を他国を引きずり回そうとするなら、それは「天道」を大きく外れて行くことになります。
人生は与えられたそのときから、己のカルマを修行し、揺るがない「天への感謝」を得ることが「順天」であり、それを笑い飛ばし魔物に近い冷酷な知性を以て、他を治めようとするなら、それは「逆天」であり淘汰の対象であり、人としてこの世で返していくべき、「己の人としての不備」を更に増すこととなるはずです。
そのような事からも、カルマとは「天に対する魂の負債」であり、私達はそれを返していくために人生を修行していくのだと、私は思います。
画像はあけび教室の先生のお庭で撮影しました「ドウダンツツジ」の花です。
白いブラウスの提灯袖のように、可愛らしかったです。
秋は紅葉が綺麗な「ドウダンツツジ」の花が、白いとは思いませんでした。
今日のフィーリングは、堤智恵子さんの「SHIO-SAI シオサイ」、高橋洋子さんの「Fly Me To The Moon フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン(2020 Version バージョン)かな