世界が平和になりますように あなたが幸せでありますように

「幸せとは何であるか」と、多くの方々はその人生で、幾度となく考えたことがあるかと思います。
若い頃は夢のような日々を心に描いて、水たまりに落ちる雨のしずくにも心を揺らすほど、繊細で壊れやすい感性も、やがて相手から与えられるストレスから、「嫌悪するような姿だ」と思うようになっていくとき、初めに抱いた心の情熱を忘れて、相手から離れたくなるのかもしれません。
しかしながら家庭を創る人々にとって、その人の大切さを忘れてしまうのは残念な気がします。
なぜ人は、「その人」に出会うのでしょうか。
途中で何かがうまくいかなくなるように感じるのは、かつての人生で敵同士だった場合もあるでしょうし、また住んでいる土地の因縁や他人の思惑(生霊と呼ばれるようなもの)もあるかもしれませんが、どの原因を知ろうとしても必ずその人がそこに「ある」のは、その人の生まれ持ってきたカルマや、その人がその人生の途上で出会う人々や事象とのこ゚縁であるはずなのです。
この世では全く関係のない人々が出会うことは、無いと思います。
「袖振り合うも他生の縁」という言葉があるように、「多生の縁(それは何度も生まれ変わる中で得たこ゚縁)」なのでしょう。
また日常でも知らぬ間に、偶然の一致とは思えないような事柄に出会っているかもしれません。
子どもの頃からよく大人たちが言っていた言葉を思い出しました。
ある人のことを誰かと話していると、その人が偶然現れたりすることがあり、それを「話が迎えに行ったのだね」とよく言っていました。
それは[シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)」ということであり、そこには様々な人と人が出会うための要素が、その人々を結びつけていたという事なのでしょう。
「結婚に至る」ということは、その二人が「その人生で出会わなければならなかった」という事だと思います。
それは人によって、魂が解け合うほど心が繋がっていた因縁があったのかもしれませんし、かつて敵同士だった二人が、この人生で「互いを理解して和解するための努力をする道」を、与えられていると考えるのが妥当かと思われます。
まだ若い頃、ある話を聞いたことがあります。
ひどい暴力を、自分の妻に与え続けていた男がいました。
その妻は耐え続けていたのですが、ある日病に倒れ、あっという間に亡くなったそうです。
そうすると男は我に返り、泣き続けてある朝自害したということです。
この男がもし妻を心から憎んでいたなら、妻が亡くなった後嘆き続け、死を選んでしまうでしょうか。
それは「妻の死」というショックから、その男が「狂気」を取り去られた結果、いきなり正気になって、どうすることも出来なかったのでしょう。
結果的にその妻は、「命を賭けて自分の夫をまともにした」、ということなのかと思います。
しかしそんなとき、人には後戻りする道もありません。
そして本当に大切なものを失ったと初めて理解したとき、その男はもう何にも希望を持てなくなったのかもしれません。
この男は何か抗いきれない因縁によって、心の中に入り込んだ「何か」によって、狂気の体(てい)をさらしていたのではないでしょうか。
そしてその男にまとわりついていたカルマは、結局その男の人生を食い荒らしたという事でしょう。
恐ろしいことです。
人はその人生の途上であらゆるものと闘いながら、自分の夢を叶えようとします。
しかし抗いきれないほど強くて大きな「カルマ」や、「良からぬ魂からの生霊」などに、「本来の自分」を狂わされていることがあるのかもしれません。
そのように理解して、初めて始まるものがあります。
心の内に「祈りの心、頭(こうべ)を垂れる心」を持つことが、そのような、ある意味「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」から自分の人生を強力に守る、ただ一つの道であるかと思います。
「忍耐」は修行の第一番目であり、それを乗り越えることによって、多くの因縁を償ったり消化したりの後に始まるものが、実は本当に手に入れるべきものであるのかも知れません。
「この人と地の果てまで行ってみよう」と心に固く念じ、強い心を養って時を行ずるなら、相手の後ろ姿を心から「愛おしいもの」として感じる日が、必ず訪れるのではないかと、私は思います。
自宅から見た夕暮れの中に、不思議な顔が見えたような気がしました。
多分気のせいです。
今日のフィーリングは、The Police ザ・ポリスの「Synchronicity Ⅱ シンクロニシティⅡ」、Julio Iguresias フリオ・イグレシアス氏の「El Amor エル・アモール」、Milva ミルヴァさんの「Caruso カルーソ」かな

