心の「悪魔のような冷徹なもの」とどのように生きていくべきなのでしょう

人の心は複雑であり、他の人が容易に計り知れないものです。
それは人それぞれの生きて来た背景、人間関係の良し悪しなどから導き出された物事に対する考え方、そしてその対処方法などから生まれる「イデオロギー」によるものなのでしょう。
人は直面した他の人間や事象から、様々な感情を経験することによって、その性格が形作られるように思えます。
人は人々の間に生まれ育っていくものであり、何らかの人間関係のもとに心の流れが形成され、独自の宇宙を形作ってきました。
素のままの子供から大人へと成長していく過程で、例えば感情のまま行動すると、社会の「厳しい掟」に指導されることも多く、思いのまま生きていくことは、出来ないと悟ることも多いでしょう。
そうやって人は「誰か」と直面するとき、心にしまわれていた「経験」を生かすべく、努力しているのかも知れません。
小さな時から「世のため、人のため」を心に描いて生きてきた人などは、その人生の途上で何度も現実に打ち据えられ、他人との心の交流も、跳ね除けられるような事が生じて来る事があります。
そのような時を何度も経験していくと、「もう二度と人に軽んじられない」、「もう二度と損な事はしない」、「もう二度と人を優先させたりするもんか」というような、戦闘的な心の流れを作ってしまうことが、あるのではないでしょうか。
例えば厳格な家庭の中で、偏った思想を植え込まれるような日々であり、前述したような他人との交流の時点で、感情を粉々にされる様な、人との良き交流を、挫折せざるを得ない経験をして育ってきた時、心は中庸(ちゅうよう:過不足なく調和がとれること)を選択することが、難しくなるのではないでしょうか。
昔から、「1種類の本しか読まない人は危険である」と聞いていた事があります。
1種類の宗教の本、政治の本、思想の本等だけを選択して生きることは、やはり「妥協をし辛い」ことから他との協調性がし辛くなったり、人の幸せよりも正義を重んじ過ぎたり、どこか危ういものを感じてしまいます。
自国を重んじ過ぎて、その富や栄光しか目標の先に置いていないような人物が、国を牛耳ることになるのは、その国の不幸だけでなく、他国をも大きく脅かす存在となり得ます。
例えば国を動かすような人にこそ、最も大切な事は、「世のため人のため」というある意味野暮ったいような泥臭いようなものを、心の中に残していることが大切なのかと思えます。
その「世のため人のため」の言葉の中には、人への優しさが感じられます。
「正義」は大切ですが、その心の中に「何処か優しさがあること」、例えば落ちぶれているように見える人々のプライドを守ってあげられることや、必死で自分を隠そうとするような人々の、緊張感を和らげてあげられるような、「心の中の余裕」を持てる人は貴重だと思います。
そういうことの出来る人は、恐らく何度も、多くの人々や多くの事柄に挫折しながら、どんなに辛くても「世のため人のため」という、泥臭いような、それでもどんなに時が流れても光り続けるようなものを、必死で守り続けてきた人に違いありません。
天から何度も試練を与えられ、「現実」に何度も打ち据えられても、必死で「人間として本当に大切なものは何なのか」という課題を、失わずに生きて来た人なのでしょう。
人生を生きていくときは、誰にとっても辛い事が多いものですが、その中では、2種類に大別される人々が存在するのではないでしょうか。
優しさを絞殺しても(しめころしても)義理を欠いても、目的達成を求め富や栄光を求める人、そしてまた、万一自分が損することがあったとしても、他人も自分と同じように幸せになりたいことを心に描くことが出来て、そしてそれを人生の学びとして捉えることの出来る人です。
「優しさ」は時折、何かを成し遂げる「足かせ」となることもあるでしょう。
しかしどんな厳しい風が吹いても、どんなに時が経っても、今まで生きてきた経験からの「智慧(ちえ)」と共に、「優しさ」は人がその心の中に、生涯大切に持ち続けるべきものだと、私は思います。
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画像はみちのく有料道路の、休憩所です。
雪の風景に、何故か心が温まりました。
今日のフィ−リングは、Edvin Marton エドウィン・マ−トン氏の「マジック・ストラディヴァリウス」、ラッセル・ワトソン氏の「ⅡGladiator Ⅱグラディエーター(映画グラディエーターのテ−マより)」かな

