心の選択的透過性は大切でしょう
私達の生き方の中に、誰でも何らかの思想が在るはずです。
その思想はどこから来たのかということは、それぞれの人生の流れの中で出会ってきた、宗教なり哲学なり、共感できる人なり、事象などであるのでしょう。
それが宗教の場合、子供の頃から知らぬ間にその「思想」 に含められる事も、多いかと思います。
例えば教団のトラブルなどでは、それが問題のある環境であったとか、教義など子どもたちに強要すべきでないという意見が、大半なのかとも思いますが、それは確かにその一個の人間としての宇宙を、子どもの頃から決定してしまうことになるという事でしょう。
それでも私は、それが全て害悪のようには、思い切ることが出来ません。
何故なら子どもは自由に野山を駆け巡り、自分の個性を自分で発達させることが最良であるとされるのは、ほぼ無理なことだと思うからです。
確かに三才までは、仏壇に入ることが出来るほど、純粋な魂を持っているとされるようですが、それ以降社会に出る準備をするまでには、常識的なことがら、いわゆる「道徳」という考え方が必要であると思うからです。
社会は、全く違った宇宙を持つ人々が集まって出来ていますので、自由奔放に生きて来た人々同士がうまくやれるとは、とても考えられません。
芸術や職人の世界、表現者の世界では、自由に自分を出して表現することが、「個性という宝物」を持っていることの証明にもなるでしょうが、それでも一国の中には法があって、他人同士が平和に在るべきで、其の為に心が通じ合うことが多くの場合必要であるという事は、人々がそれなりに、どこかで気を遣わなくてはならないということでしょう。
いろいろな場合に気を遣うことは、人を思いやることであり、それを共感力というのでしょう。
それはまさに子供の頃からの教育に、懸かっているような気がします。
人を敬うことが出来ないのは、根本的に人を慈しむことが出来ないからではないかと思います。
それは子供の頃から、宗教的な事柄に親しんで来た方々と話をする時、この世の理(ことわり)や天道をきちんと教育されていらしたと感じることが多いからです。
そこから心の交流の一歩が踏み出せます。
それは必ずしも、宗教に依るだけではないかもしれません。
親御様が自分の心を尽くして、社会に接していらっしゃるような方々のお子様方を見ていると、心が暖かくなるような場面にたくさん出会う機会があります。
「親の背中を見て子は育つ」といわれますが、自分の心の中に人を慈しむ志、心を尽くして仕事をする志があったなら、恐らくなんの「教育」を懸念しないとしても、多くのお子様たちは、こころ柔らかな社会人や、正しい方向へ人を導ける人となることが出来ると、私は思います。
人間として基本的な慈しみや、共感力という知性は、色々な「こ゚縁」に依って育まれますが、それは人とより早く心を通じることが出来、「自分自身を必ず幸せに導いて行ける道」を照らしているはずです。
そのような「知性」の上に成り立った「自己表現」や「意見」や「行動」は、多くの方々に理解され、人と心を通じることが出来、そのような人々が社会を創って行く時、恐らく無惨な戦いが生じる国にはならない筈です。
そのような人々が創って行く国家は、他の国から理解され愛されるのではないかと、私は思います。
画像は白いトラのぬいぐるみです。
長くお世話になったクルマの中にあり、心の癒やしとなっていました。
もうそのクルマとはこの世で逢うことは有りませんが、「また逢いましょうね」と精一杯の感謝と真心を贈りました。
今日のフィーリングは、Madonna マドンナの「Rain レイン」、久保田利伸氏の「AHHHHH! アーーーーー!」かな