言葉を伝える相手の心は 自分と同じ人間の心です
今朝玄関ポーチの端に、ヘビの死骸が横たわっていました。
かなりの大きさで、黒い縞模様があり、背中と腹の部分に酷い傷がありました。
内臓がえぐられて有り、猛禽類(もうきんるい)にやられたのかと思いました。
その前の日、玄関ポーチに置いてあった車に乗って窓を開けていた時、物凄く大きな鳥が飛び込んで来て、車のルーフに止まりました。
窓の上部に大きな尾羽根が掛かっていたのを見ると、かなりの大きさで色合いも「ワシ」とか「鷹」のようでしたが、車内に入るのではと恐ろしくなりながらも、じっとしているとやがて飛び去って行きました。
そして翌日そんなことがあったので、猛禽類の仕業かと思ってしまいましたが、頭部の小さなそのヘビは、傷だらけで本当に可哀想でした。
その日はまた、テレビなどで拝見している方が亡くなられたのを知って、心が沈んでしまいました。
SNSで、攻撃的な言葉をかけられ続けたような事が、記事の中にありました。
それが精神的ダメージを与えられた理由の一つだったようで、何故か朝に見た、ヘビの傷だらけの骸(むくろ)の痛々しさが、心に染み入りました。
恐らく世界中にそういったことは、 あるのかも知れません。
言葉というものはとても大切であり、使い方も難しいと思います。
人によっては書くことに依って、自分の苦しみ、ストレスやフラストレーションを解消する場合が、あるかも知れません。
心の丈(たけ)を発散して行くことも、必要な場合はあるでしょうが、言いたい放題の言葉をぶつけられる相手もまた、同じ人間であるということを忘れてはいけないと思います。
どんなに気が強そうでも打たれ強そうでも、激しく棘のある言葉は、心の柔らかな場所を切り刻んで行くような気がします。
切り刻まれた心は、段々と悲しみと不安で蝕まれて(さいなまれて)行き、「日常」を保つことが出来なくなり、最良の結果を導けなくなると思います。
人が不安や悲しみに耐え続けていくと、ある日全てが面倒になり、人生を容易に手放してしまうこともあると思います。
自分の放った一言が、他の人の心を切り刻んで行く事になり、それは取り返しのつかないカルマを作り出すのです。
「意見」は大切なことであり、人としての「権利」でもあります。
しかしながらその「意見」を構成するものの中に、相手を潰してやろうとか嫌がらせの気持ちがもしあるのなら、それはやがて「その言葉を放った自分」にも同じようにこだまするものであることを、知るべきかと思います。
そしてこの時代自分の名前を公表せずとも、書き込みが容易にできる中で、いじってやろうとか苦しみを与えようという意図がその中にある場合は、まるで暗がりから、いきなり鋭い剣で人を刺すような行為であるかと思えます。
人の心を刺して傷つけ痛みを負わせ、無茶苦茶にして、姿も見せず去って行くようなものです。
自分がたとえ忘れ去ってしまったことでも、天の網にすくい上げられ、それはその人の人生に形として残っていきます。
それがカルマを形作って行くことは言うまでもないことでしょう。
そしてそのカルマは次の世代に引き継がれて、自分の愛する子や孫の人生の邪魔をするかも知れません。
言葉一つに他を思いやる心があったなら、その言葉は人を癒やし、その人生の助けとなります。
慈しみを持つ心から発せられる言葉は、他や己を邪気から救い出します。
そんな心を持った人々が増えるなら、社会は邪気を払い、やがて国を邪気から守る力を持つと思います。
何故なら優しく在り続けることもまたとても難しいことであり、それはあらゆる負の感情を乗り越えてもまだ揺るがない慈しみを保つ、修練の結果であり、「揺るがない慈しみ」を保つことは、長きにわたる修行が完成した結果であるからです。
そういった美しいカルマを積んでいくとしたら、多くの人々が「生まれてきて良かったな」と思えるような、とても素晴らしい未来がやって来ることでしょう。
画像は家のあじさいです。
何年も前に小さな一鉢を購入したもので、あっという間に大きくなりました。
今日のフィーリングは、The Jaywalk ザ・ジェイウオークの「何も言えなくて・・・夏」、大塚 愛さんの「プラネタリウム」、キタニタツヤ氏の「なくしもの」かな