重いカルマを感じたとしても 未来は必ずあります
ごく普通に社会で暮らしている方々の毎日の生活の中で、ある日一生懸命生きようと決心しても、様々な事象の中で悩んだり驚いたりしていくうちに、突然何だか全てが面倒に感じられて、1日中家の中でぼんやりするようなことも、有るかも知れません。
過去の嫌な思い出や、他人や他の生き物に対して黒い意地悪や、酷い事をしたりなどの記憶が「今」を苛む(さいなむ)こともあるでしょうし、人は感情の動物ですから、心が整っていない日々も有り、その中で偏った発言や誤った判断の記憶にも苦しむ事は有るでしょう。
それでもそんな不可解な感情のひび割れやちぎれ方によって、落ち着かない日々は、むしろ一歩もニ歩も前進している証拠であります。
以前は悩むことも考えることもなく行っていた、例えば酷い仕打ちや発言などが、「それは酷かったな」と自分で理解できて来た故に、それが波となって感情をささくれ立たせているという捉え方の方が、ゆっくり眠れそうな気がします。
「カルマ」についてもそうだと思います。
人の行ってきた「現実」が、カルマを形造って行くことになるのですが、自分の行動なり考えなりを、心正しい優しい人間としての「ストライクゾーン」に当てはめるとき、何かが変わり始めています。
「いや、あれは仕方なかった」とか、「そんなに自分で不備を認めることはできない」などと、心の中で繰り返し唱えても、心の何処かがささくれだって少しづつ優しさとしての感情が、痛みを伴って染みてきて、穏やかで居られなくなるのかも知れません。
そのような時は、カルマを解消し始めるための扉が、少しづつ開いて来ているはずです。
それ故「私には重いカルマがある」と悩み始めるとき、そこから脱出するための扉が、開き始めていることに気が付くだけでも、とても素敵なことです。
かつて酷い事をしたと思っているとしても、それに気づいた人はとても素敵な人なのです。
すぐその扉まで走っていけば、カルマの重大さもだんだん軽くなっていくことでしょう。
軽やかな足取りで、風景も対人にも対処できるのではないでしょうか。
有る一定以上の世代の方々は、ひとけのあまり無い道路沿いに立っている家の壁などに、松山容子さんのボンカレーや、水原弘氏のキンチョールの宣伝の看板と共に、「悔い改めなさい」とか「天国は近い」等というメッセージを見ることがあったと思います。
今はもうボンカレーやキンチョールの看板は無いでしょうが、聖書のメッセージは時々あります。
そんなとき「この私が一体何を悔い改めるのか?」などと、不届きとも思えるつぶやきをせず、「よく分かります」「悔い改めます」と心の中で真摯にはんすうしてみると、その方はその瞬間から素敵な人への道を歩き始めることになります。
今日も読んで頂けましたことに、心よりの感謝を申し上げます。
画像は青森県平川市の猿賀公園です。
3日ほど前に行きましたが、まだつぼみが多かったです。
そろそろたくさん咲き始める頃でしょうか。
今日のフィーリングは、Mrs. Green Apple ミセス・グリーン・アップルの「Folk Tale フォーク・テイル (民話)」、久保田利伸氏の「君のそばに」、Celine Dion セリーヌ・ディオンさんの「Loved Me Back To Life ラヴド・ミー・バック・トゥー・ライフ」かな