友という言葉の考察

一人の人間がこの世を生きてきた時、世界人口約82億人の中から出会う「その人の友」となることは、奇跡に近いのかも知れません。
親兄弟姉妹、妻や夫、という立場であるとしても、最も心和む、また成長するチャンスをくれる立場が、「友」と言えるかと思います。
どんな関係の中にも「友」と呼べる人になるのは、天の采配だと長きに渡ってそう思って来ましたし、それは天道の下で、良いカルマ悪いカルマによって引き合わされた者同士なのかも知れないと、思ってきました。
初めは何となく理解しづらいと思っていた相手が、生涯の友となったり、また気が合うと思っても、それほどの長き歳月を共にしない相手もあります。
人と出会うことがどのような立場に依っても、自分の人生に対しての大きな「刺激」となることは、「経験という教師」との対話であり、それは人生を続けていく上での大切な知識や哲学を、学ばせてくれるものです。
自分の心が成長していくに連れ、その人を本当に理解しようとする気持ちと、理解力が釣り合った時、初めて「本当の友」と認識できるのでしょう。
これは良きもの、これは悪しきものと判断して、自分を守ろうとする心はとても良くわかります。
しかし悪しきものと思っていたことにも、私達の知らなかった哀しみの故であることが、多く存在します。
そして良いものと信じていたことにもまた、その裏には驚愕の事実が隠されていることもしばしばです。
昔読んだ書物の中に、「良きもの悪しきものと自分で判断して人やものを見る時、己の心が「空 くう」であったら、その判断も意味を成さないものである」という言葉がありました。
大切なのは揺るがない「自分」なのでしょう。
空(くう)とは、この世の全てが人やもの、事象との「縁」によって成り立っているため、その「縁」の流れによって全てがやがて変化するという仏教の教えから、人生の流れも変化し一つとして固定されるものはないため、考えやものの捉え方も変化して行き、「絶対」ということが成り立たず、断言できるものはないということです。
「朱に交われば赤くなる」のは、自分自身の中に揺れていて、まだ確かな心が定まらない時期があるためかと思えます。
そのため人が一番先にこの世で求めるべきは、自分の心に信念を育てることや、天道に頭(こうべ)を垂れる心を見つけることではないかと、思うことがあります。
自分の信念は自分の背骨となり、人生を渡るための強い武器となりますが、それが過ぎると、融通がきかず新しいものを受け入れる心が広がらず、「頑迷(がんめい)」に傾く恐れがあります。
そのためいつも、心を潤す役割のある「謙虚さ」を育てていくなら、自分より正しいもの、強きもの、優れたものを認める心の広さと、自分を成長させていく「意欲」を持ち続けることが出来そうです。
「信念」と「謙虚さ」は、「不安に揺れない心」を保つための両輪かも知れません。
親兄弟姉妹、恋人たちや夫婦の仲にも、それぞれが時を重ねて空気のような存在となった時、「友」であることを認識できることが、この世における人間関係の最高峰となるのではないかと思います。
何故なら友であることを認識できる心になるまでには、相当な痛みや哀しみ、忍耐や学びがあり、それを超えて初めて成されることだからです。
このあらゆる不確かな事象が、多く生じる不安な世界において時を超えて、誰かの友として存在できる幸せを、この世で味わうほど幸せなことはないのかも知れないと、思うからです。
画像は八甲田山です。
いつもは青森方面から八戸に向かって八甲田山を通りましたが、今回は八戸方面から青森に向かって通った風景でした。
山のすそ野近くまで紅葉が降りてきて、いつもの並木が本当に美しかったです。
あと一回くらいは行けるでしょうか、11月に入るとこの通りは、間もなく入山禁止になるのでしょうね。
今日のフィーリングは、吉田兄弟の「RISING ライジング]、Kiroro キロロの「Best Friend ベスト・フレンド」、Back Number バック・ナンバーの「水平線」かな

